佐野研二郎さんの一連の騒ぎで露出する受け取り側の意識の問題

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  • 「氾濫する情報」
  • 「一方的な言葉」
  • 「無責任な賛同」

以前からなのかもしれないが、最近のニュースやSNSを見ていると、『受け取り側』の暴走が目に余る。

それが顕著なのが、佐野研二郎さんの一連の騒ぎに対する大衆の反応だろう。

最初に東京オリンピックのエンブレムデザインを見た時、僕は「素敵だな」と思った。
それは今でも変わらない。

そのうち、盗作疑惑を指摘した内容の情報がネット上で見られるようになった。

僕はあまり気にしていなかった。

平面でシンプルに色も少なく表現しているので、似たものくらいそりゃあるだろう。
佐野さんがデザインコンセプトを示すなり、盗作では無いことを説明してくれればいい。

そんな風に思っていた。

だが、
そんな思いはあっという間に多数の『受け取り側』の言葉によって打ち消されてしまった。

作った本人からの説明を聞く前に、大衆により盗作疑惑は盗作事件へと様相を変えていったのだ。

事の上辺だけ見て騒ぎ立て、多数派の意見にただただ同調して非難する

オリンピックのエンブレムデザイン盗作疑惑から始まった騒ぎは、いまやデザインの枠を超え、佐野さん本人への攻撃へとなっている。

人への攻撃だ。

インターネットがあることにより、『受け取り側』の人間はいつでも人を攻撃できるようになってしまった。

しかも防御する必要がない。
姿が見えないから、言いたい放題言える。

盗作疑惑が騒がれ始めて、途端にネット界隈は盗作疑惑ネタでいっぱいになった。
過去のデザインまでが無残に取り上げられ、『パクり』だと騒ぎ立てられている。

取り上げられているのも、「イトーヨーカドーのロゴって鳩サブレのパクりじゃね?」ってのと同等くらいのレベルのものもある。

「パクりだと言う根拠は?」

そんな問いには答えなくても黙っていれば姿が見えないから彼らには関係ないのだ。

だから、『受け取り側』の人間が攻撃もできるようになってしまった。

上辺だけ見て「似てるよ、これ!」と非難すれば、無責任な賛同者たちが騒ぎを大きくしてくれる。

騒ぎが大きくなればなるほど、同調する人間も増える。

多数派の意見に賛同することが正しいことだとされているからだ。

後にその行為が間違っていたとしても彼らに影響は無いから簡単に同調する。

姿が見えないことが前提としてあるから、
そもそも自分の意思が自分の行動に宿っていない可能性が高い。

『パクり』が叩かれる理由

パクるという行為は何故こうまで叩かれるのだろう。

パクりとは、人が考え抜いて作り上げたものを、何の苦労も無く自分のものとして発表することだ。

つまりは、パクられる側の人の創造性・時間をまるっと奪う行為である。

恥ずべき行為であるし、叩かれて当然だ。

だが、今回の騒動を見ていると、パクるという行為自体に対しての憤りよりも、それぞれの個人的な感情が露出しているように思える。

  • 単純に有名であるものへの妬み
  • 著名な人間を引きずり落とす爽快さ
  • 非難することで注目を集めたい

著名な人間の粗探しはどうしてか大衆に好まれるトピックだ。
率先して非難して、こじつけに近くてもパクリだと画像を掲載することで、注目を集めることができる。

また、今回のようなデザインの類似というのは、パクリの問題の中でも大衆に受け入れられやすい。

似ていればいいからだ。
知識がなくても文句が言える。

上辺や外見でしか判断しない人間には恰好の獲物となる。

デザインはパクリだと言いやすい

現在、この世で作られているもののほとんどは、過去に誰かが作ったものと類似していると思う。

デザインにしてもアートにしても音楽にしても、完全に新しいものはなかなか創られないのではないだろうか。

新しいものに見えても、名の知れぬ一般人が以前に似たものをラフ絵では描いていたかもしれない。

そしてその中でも、デザインというもの自体がパクりと大衆に言われやすいものだと思う。

デザインとアートを比較してみるとわかりやすい。

アートにも盗作疑惑は多くある。

パクリ?それとも偶然?すごく似ている現代アート比較画像

だがアートがあまり騒がれないのは、作品に多くの素材が使われるところにある。
設計として似ていても、素材が変わることで外見を見る限りは似ているように見えない。

また、アートは基本的には主観的なものである。
アーティストが受け取る側に理解を求めていないケースが多い。
理解できない時点で非難するにはハードルが上がる。

つまり、受け取る側が何か意見をするにはそれなりの責任が必要になるのだ。

対して、デザインはどうか。
デザインは客観的なものだ。
受け取る側に理解してもらうためにデザインされる。
この時点で、受け取る側は受け身だ。
非難するハードルは途端に低くなる。

それに今回のエンブレムの騒動に見られるように、デザインは平面で、いわゆるデータであることがほとんどだ。
フラットであればあるほど、「似てる」と言うことが容易になる。
デザインは工程が見えづらい。
外見だけを見てしまえば、簡単なように見えてしまう。

今回のエンブレムの騒動で言えば、その見えづらい工程を受け取る側自身が自分に説明ができないため、安直に非難する方向に流れているように見える。

パクっているのはどっちだ

デザインは工程が大衆には見えづらいものだ。

だから今回のような騒動があった場合はどのようなコンセプトで製作したか、説明が必要になる。
そして、佐野さんはきちんと説明をした。


五輪エンブレム問題 制作者の佐野研二郎氏が会見

この事実にもっと我らは目を向けるべきではないのか。
正しいのかどうかもわからない情報に踊らされている場合じゃないだろう。

非難するのであれば自身で情報を精査して責任をもって発言すべきだ。

とある掲示板で、こんな書き込みを見た。

「おい、佐野。さっさと辞めろ!」

そして、こぞってその下に彼に同調するように書き込みが続いていた。

どうなのだろう。

『やめたほうがいい』のは書き込みをしているほうの人間ではないか。

事の上辺だけ見て騒ぎ立てる。
多数派の意見にただ同調して非難する。

そんな己の行動を何よりも先に、さっさとやめたほうがいいだろう。

パクっているのはどっちだ。

他人の意見を、パクって自分の意見とするのは、もうやめて欲しいものだ。

筆者について

筆者について


1982年、東京下町生まれ。
高校卒業後、アメリカへ留学。その後、「アートが根付いた国では絵だけで食えるのか」を確認するため、ドイツベルリンにてアート活動をおこなう。

日本に戻ってからは、コーディング・オーサリング・プログラミングなんかを経て、ウェブディレクターを肩書きにしておりました。現在は独立し、ブログやサイトの運用を軸に、ウェブサイトの企画提案からデザイン・構築まで手広く活動しております。何でも屋です。

isLog〜イズログ〜では『日々生きること自体が旅』をモットーに、日々の旅を中心に綴っています。

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