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isLog [イズログ]

isLog〜イズログ〜は『日々生きること自体が旅』をモットーに、旅行記やグルメ情報について綴っているブログです。

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みんなの母だった 祖母との思い出を綴ってみる

ライフスタイル

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祖母が亡くなってからもう2年も経つらしい。
3回忌をやると母親から連絡がきた。

僕が小学校3年生の時、母と僕は東京に越してきた。
東京には祖父母が住んでおり、そこに同居する形で一緒に暮らすこととなった。

母は東京にきてからは働き詰めで、夜まで家には帰らなかった。
祖父は個人タクシーの運転手で、昼まで睡眠を取って夕方から深夜にかけての仕事。

必然的に、僕は専業主婦である祖母と過ごすことが多かった。

祖母と過ごした大切な時間

僕は「おじいちゃんっ子」「おばあちゃんっ子」だったので、祖父母と暮らせるのが嬉しくて仕方がなかった。
週末も祖父母と実家近くの荒川河川敷に遊びに行くのが恒例だったし、祖母が所属していたテニスクラブに僕も連れていってもらっていた。

祖父母は僕をとても大事に育ててくれた。
母が働きに出ている分、祖父母と過ごした時間のほうが遥かに長かった。

母の味

母の味は何かっていう質問を時々耳にすると思う。

僕にとってのそれは、『祖母の手料理』になる。
母の手料理も好きだが、身体に染み付いている味は祖母のものだ。

元々献立は和食中心だったはずなのに、気付いてみれば僕の好きな料理を出してくれるようになっていた。
祖父と僕の好みは違うから考えるのが大変だったと思う。

祖母の作るものは大体なんでも美味しく、家に友達を連れてきた時も手料理を振舞ってくれる人だった。

祖母が亡くなった後、祖母の妹が手料理を何度か振舞ってくれた。
その料理は祖母の味付けに似ていて、身体に染み入ってきてやさしい気持ちになった。
料理には、心が宿ると僕は思う。

表現し続ける人

祖母は常に表現をしている人だったと思う。
常に新しい表現を模索しているように見えた。

歳をとってからもその意欲は尽きなかった。

  • テニス
  • 木版画
  • 蕎麦打ち
  • 陶芸

などなど、一部の趣味でも意欲的な人だとわかる。

最初からとびきりできるわけではなく、下手でもめげず、それゆえに覚えるのが上手な人だった。

僕は祖母の血を引き継いでいると親戚からよく言われる。
僕もそんな気はする。

蕎麦打ちは僕も祖母から習って、今も時々打っている。
家族が集まる時なんかは、ちょっと恒例になりつつある。

他にも、魚のさばき方も祖母に教わった。
陶芸をしたのも、絵を描いていたのだって祖母の影響だ。
祖母から教わったことが、僕にはいくつもある。

祖母の趣味を並べてて気づいたことがある。

僕に教えてくれたことばかりだ。

突然の余命宣告

気持ちよく晴れたある日、母親に部屋に呼び出された。
母は泣き崩れながら、祖母がガンであることを僕に告げた。

なんでも無い、ありふれた休日だった。
祖母が体調悪いなんて全く気づいていなかった。
つい1ヶ月前にはヨーロッパに祖母と母親と2人で旅行に行ってきたばかりだった。

その日の午前中、祖母が尿の色がおかしいと病院にふらっと行ったそうだ。
母親は買い物に出かけていたが、携帯に病院から電話があり、病院で話を一緒に聞いたとのことだった。

これまで病気も無く健康だった上に、最近も特に体調を崩していた様子はなかった。

ガンと言われた本人も特に辛い様子はなく、「痛くも無いのに不思議ね」と言っていた。
僕は彼女の身体をガンが蝕んでいることが本当のことなのか、理解ができなかった。

その後すぐに、祖母は入院して精密検査を受けた。
検査結果がでた後、主治医の先生に病状を説明を受け、「長くて余命2ヶ月」と言われた時にようやく事態が呑み込めるようになった。
痛みが無く、体調に現れにくく、発見しづらいガンだったそうだ。
その段階でもう、末期とのことだった。

ガンだとは思えないと思っていたのは最初のうちだけで、2週間過ぎた頃から祖母は寝たきりになった。
あっという間のことだった。

そんな中、驚く出来事があった。

宣告から1ヶ月を過ぎ、自宅での療養も不都合がでるくらい一日中寝たきりになっていた頃、僕の友人と僕の今の妻と家族を集めて、自宅でそば打ちをすることにした。
少しでも祖母が喜んでくれればと思い、企画したのだ。

キッチンに椅子を置き、祖母にはそこに座ってもらった。
この頃の祖母は10分くらい身体を起こすのが限度だったと思うが、僕が準備をして蕎麦を練り始めるのを笑顔で見ていた。
僕はこれが祖母に蕎麦打ちを教わるのは最後だと感じていた。
きっと祖母も、そう感じていたのではないかと思う。

蕎麦を練りはじめて少しまとまりが出た頃、今の妻に「やってみなよ」と場所を譲った。

妻が苦戦しながら蕎麦を練っているのを祖母も愉快そうに笑いながら見ていた。

そんな時だ。
驚く出来事が起きた。

1日1度も立ち上がらなかった祖母が、すくっと立ち上がり、妻の横に膝をついて蕎麦を練りはじめたのだ。

やった事がある人はわかると思うが、蕎麦練りは割と力がいる。

祖母は力強く黙々と蕎麦を練った。
まるで妻に、僕に、引き継ごうとしてくれているように見えた。

この頃は柔らかいものしか祖母は食べれなくなっていたので、温かいつゆに柔らかく茹でた蕎麦をいれたやった。
しかし、温かいそばはあまりお気に召さなかったようで、ざるで用意したものを美味しそうに啜っていた。

母は涙を浮かべながら驚いた顔をしていた。

その次の週、祖母は病院に入院した。
「長くて余命2ヶ月」という最大の2ヶ月を、祖母は生きてくれた。

亡くなるときも母だった

自宅療養から病院に戻ってからは、モルヒネの投与もあり、祖母の意識はぼやけてきていた。
最終的には、寝たきりで目を覚ますことも無くなった。

最後の時が近いと判断し、病院に頼み込んで親戚が日替わりで泊まることにした。

母や叔父、祖母の姉妹などが泊まってくれた後、そろそろ僕が泊まるよと皆に伝えた。
しかし、仕事から手が離せず、その日の夜は病院へ行くことが出来なかった。
代わりに祖母の姉妹が夜通し一緒にいてくれた。

次の日、仕事を終えて病院へ向かった。
母と祖父、叔父が看てくれていたので、入れ違いで僕が病室に入った。

久しぶりに祖母と2人になった気がしたので、改めて話をしようと祖母の近くに座って話をした。
小さい頃からのこと、感謝していること、楽しかったこと、謝りたかったこと……
言葉は短いながら、たくさんのことを伝えた。

30分くらい話をして、母からもらった夜食を食べようと、隣のベッドに腰掛けたときだった。
ベッド横の機械が音を鳴らし始めた。

看護婦たちが慌ただしく病室に入ってくる。
婦長さんに家族を呼んだ方がいいと言われ、母と叔父に電話をかける。

看護婦たちは医者を呼びに病室から出て行った。

そんな気がしていたんだ。
僕がここにきたら祖母は逝ってしまう気がしていた。

医者が病室に入ってきてしばらくすると、祖母の息は止まった。
医者が亡くなった時間を僕に伝えた。

息が止まった後も声が聞こえると何かで聞いたことがあった僕は、祖母に「ありがとう」と伝えた。
これまで、ありがとう。
今日も待っていてくれて、ありがとう。

祖母の目から涙がこぼれるのを見た。
考えてみれば、祖母が泣いたのを見たのは、その時が初めてだった。

祖母が亡くなったあと、日頃ほとんど会わない親戚と話していると、「おばあちゃんは私にとって2人目のお母さんみたいな人だった」と言われることが多かった。

僕にとっても祖母であり、母だった。
祖母は僕だけでなく、誰にでも母であるかのように接することができたのだと思う。
きっと誰から見ても、母のような存在だったのだろう。

ひとつある心残り

僕が小学生だった頃、祖母の知り合いが亡くなった。
その方は当時まだ若く、僕と同じ年くらいのお子さんがいて、よく一緒に遊んでくれた。

はっきりとまだ光景を覚えている。

まだ実家が改築前の木造だった頃、夕日が入り込んだオレンジ色の台所に立つ祖母の横を走り抜け、僕は台所の奥にある冷蔵庫に向かった。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いで一気飲みし、コップを洗い場に置こうと隣に立った時、祖母が話しかけてきた。

◯◯さんには会えた?

◯◯さんは前述の亡くなった方のことである。
僕は微笑んでいる祖母の顔を見て首をかしげた。

祖母はいつものやさしい顔をしていた。

亡くなった人はお世話になった人のところに挨拶にくるんだよ。

ちょうど夏が近く、テレビで怖い話を見てしまった僕は幽霊が怖くてたまらなかった。
だが、祖母の語り口は優しかった。
伝えようとしているときの、祖母の声だった。

祖母の性格から霊的なことも否定的だと僕は勝手に決めつけていた。
その祖母が言うことだから、本当のことなのだろうと納得してしまった。

「わたしには先週会いに来てくれたよ。踏切の向こう側から手を振ってくれたの。もし会いに来てくれたら、ありがとうって言ってあげてね。」

僕は大きく「わかった!」と返事をした。
その出来事から、僕は亡くなった人は挨拶にきてくれると信じてる。

だから気が向いたらさ、ばーちゃん、にも会いに来てよ。

僕、わりとまだ待ってるんだ。

 

次回予告(明日になってみたら違うことが多々あります)

立石の仲見世は酒もいいけど惣菜もいいのですよ
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